直木三十五碑
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長堀通りから北へすこし上がったところに大正後半から昭和初期に活躍した大衆作家・評論家の直木三十五の文学碑があんねん。直木三十五は明治24年にこの辺りで生まれてんけど、本名を植村宗一って言うねん。31歳のとき「植」の字を分解して「直木」とし、年齢を名前にして「直木三十一」をペンネームにして執筆を始めてん
その後ひとつずつ年を重ねるたびにペンネームを「三十一」「三十二」と変えていくねん。ほんまいちびってるわぁ。
(その後「三十四」を飛ばし「三十五」で落ち着くねんけど。)昭和5年に流行作家としての地位を確立した「南国太平記」を新聞に連載して、一気に有名になってん。それからも「楠木正成」とか「足利尊氏」とかの作品を次々と発表して人気が出てんけど、栄光の時は短くて、昭和9年に43歳で人生の幕を閉じてん。
大衆文芸の発展に貢献したってことで、彼の死後、その功績を偲んで菊池寛が「直木賞」が設けたんが昭和10年やねん。
ちなみに、文学碑には「南国太平記」の一節が記されてんねん。

 「きっと なせる 市蔵」
 「なせる」
大久保市蔵はそういってうなずくと
吉之助の手を握った
軽輩のすべては同じ心で
磯浜を桜島を眺めていた

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