越中井
 

大阪城から南へすこし下った道路の脇にあるのが「越中井」。戦国大名細川邸の台所の跡と言われてるねん。そしてその横には細川ガラシャの辞世の歌碑があるねん。
《散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ》
これを見ると戦国時代の混乱の様子が目に浮かんでくるねん。
細川ガラシャ(名は玉子)は明智光秀の次女として生まれて、光秀の友人である細川藤孝の長男、忠興と織田信長の晩酌で結婚し、細川家へ嫁いでん。
そやけど幸せは長くは続けへんかってん。父、明智光秀が本能寺の変を引き起こしてん。光秀は頼みの細川家の援軍に断られてあっけなく破れ、娘の玉子は逆臣の娘とし
て丹後半島の奥地に幽閉させられてん。玉子は幽閉がとかれた後、玉造の細川邸へ戻ってんけど、父を滅ぼした秀吉が建てた大阪城の天守閣を毎日眺めてん。ほんま、たまらんかったと思うわ。秀吉がキリスト教禁止令を発した時には、玉子は心の平安を求めてキリスト教の受洗して、ガラシャと名乗るようになってん。そして1600年。家康に従って上杉征伐に出陣した細川忠興に対して、石田光成ら西軍方は、忠興の戦意を弱める為にガラシャを人質にとろうとしてん。それに対してガラシャは敢然とそれを拒否して、キリストに最後の祈りをささげた後、屋敷に火を放ち、家臣にその身を討たせてん。ほんま壮絶な人生やわ。関が原の合戦の前夜、ガラシャは38年で短い人生に終止符を打ってん。

Copyright ©2005 上町ネット All Rights Reserved.